長寿社会となり、人生80年は生きることができる時代となり、認知症という病気とその他の病気と向き合うこと。これは、とても難しいことだと思います。
現在レカネマブ(レケンビⓇ)が承認され、アミロイドβに起因する軽度認知機能障害患者に使用することが、可能となりました。ただ、投与するまでのフローを以下にリンクしましたが、認知検査や各種検査を行い、投薬となると2週間に1回点滴を受けなければならずかなり大変なことがわかります。
近所に医療機関があれば良いのですが、都市部以外に住んでいる、車がないと通院できないような環境の人にはなかなかハードルが高いと思います。
認知症の初期の患者では、まだ対応できますが、自分だけで意思決定・判断が困難な人にどこまでが本人に意思であるのか?難しい問題です。
医療者としては、病気(この場合はがん)が発見された場合に医療介入を行うのですが、本人は希望していても、家族が医療介入を望まない。または逆のパターンは往々にしてあります。
医療(特に急性期病院)は、その病気を治すことはできますが、その後は後方支援医療機関(回復期、慢性期、特養、介護医療院、在宅・・・)が向き合うことになります。
例えば、ストマ管理できるか?胃ろう管理ができるか?シャント管理ができるか?
難しいですね。もし、独居の軽度認知症患者ならできるのか?家族が近くにいて支援を受けることができる体制が整っているのか?
今は、病気を治す以外に、退院後のケアはどこまで可能か?、退院後の通院は可能か?服薬管理は可能か?、家族の支援があるか?、金銭に問題がある場合や申請の支援は必要か?、行政の支援は可能か?
記載した以外にも多くのことを医療を行う前に考えなければなりません。
昔は、3分診療でぜんぜん話を聞いてくれないとか、医者は入院したらほどんと顔を出さないとかありました。
いま医療機関でそんなことしていないと思います。そのため診療に時間かけていると思います。
もし、自分が運転していて認知機能の低下が疑われたら?妻がそのような徴候が見られたら?どこまで医療介入するのが望ましいのか?すごく難しい問題です。
認知症以外の病気は直せるかもしれまんが、その後のケアは一生続きます。表面上は元気になっても、家族の名前を忘れてしまう。感情の起伏が激しくなる。徘徊してしまう。
ケアする人は、受け入れられるでしょうか?
認知症のひとが家から飛び出し、深夜徘徊して車にひかれた。線路に侵入した。事例は数多くあります。
一度自分の身になって考えてもらえればうれしいです。最近というか少し前からACP(人生会議)という言葉が言われています。葬儀屋やTVからは終活ですね。
いまは、入退院支援加算を算定するにもこれを話すことは必須です。自分の言いたいこと、思いを伝えるためにもしっかりしているうちに整理することが残された人も幸せになると思います。
人が亡くなってしまうと多くのことをしないといけないですし、予期もしないことが起きます。
最近では、若年の認知症患者が増加しています。自分に関係ないと思わず一度考えてみてください。
私は、大学生のときにホームヘルパー2級を取得しました。結局ボランティアどまりで一度も実務(業として)したことはありませんが、介護の現場は本当に大変だということを身に染みて感じました。
大変がわかるからこそ、認知症と病気(がん等の急性期、慢性疾患)、ケア、自立、お金。考えてください。
今日はここまで。